松山城
松山城は、松山市の中心部である標高132mの城山(勝山)山頂に本丸があり、裾野に二之丸(二之丸史跡庭園)、三之丸(堀之内)がある、広大な平山城です。 加藤嘉明公が1602年から築城を開始し、わが国の築城史上、最長の歳月(四半世紀)を完成までに要した四国最大の城郭で、「現存12天守」の中では、姫路城と並ぶ連立式の天守を有しています。加藤氏は、城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生氏を経て1635年から明治維新までの235年間に渡り、親藩大名であった松平家の居城となりました。
ロープウェイやリフト
松山城本丸は標高132mの山頂にあるため、歩いて登るのは大変です。 そこで、8合目付近まで運行しているロープウェイやリフトを使って登るのがおすすめ! チケットは共通券となっていて、並行しているため、どちらでも好きな乗り物を選べるのが特徴です。
道後温泉
道後温泉(どうごおんせん)は愛媛県松山市(旧国伊予国)に湧出する温泉である。日本三古湯の一といわれる。 その存在は古代から知られる。古名を「にきたつ」(煮える湯の津の意)といい、万葉集巻一に見える。 なおかつてはこの周辺が温泉郡(湯郡)と呼ばれていたが、これはこの温泉にちなむ地名である。伊予国(いよのくに)という名前も湯国(ゆのくに)が転じたものという説がある。 夏目漱石の小説『坊っちゃん』(1905年)にも描かれ、愛媛県の代表的な観光地となっている。 松山だけでなく、四国の観光地としても有名な「道後温泉」。 聖徳太子も訪れたとされる、日本最古の温泉。 「千と千尋」のモデルになった温泉です。 その道後温泉のシンボルといえるのが「道後温泉本館」。 明治27年に建てられた公衆浴場ながら、皇族専用の浴室を備える。 その重厚で歴史を感じる建物は重要文化財に指定されていながら、今も公衆浴場として、最も濃い道後の湯を楽しむことができる。
坂の上ミュージアム
原作者:司馬遼太郎(1923~1996) 大阪市生まれ。大阪外国語学校(現大阪外国語大学)蒙古語部卒。1948年産業経済新聞社入社。60年『梟の城』で第42回直木賞を受賞。『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』『空海の風景』『翔ぶが如く』『菜の花の沖』『韃靼疾風録』など多数。また『街道をゆく』『風塵抄』『この国のかたち』などの紀行、エッセイも多い。93年文化勲章受章。 建築概要 地下1階、地上4階建てのミュージアムは、建築家・安藤忠雄氏による設計のもと、平成16年12月22日着工、平成18年11月30日に竣工しました。松山城周辺の歴史や文化を意識して考えられた建物は、周囲の自然環境に配慮した外観と安藤氏がイメージする『坂の上の雲』を表現した空間となっています。
秋山兄弟生誕地
秋山家は、江戸末期の天保年間から現在地に家を構えていました。 好古が北予中学校の校長時代に住んでいたのは、自分が生まれた当時の家(4部屋と土間、台所の質素な家)に若干手を加えただけのものだといわれています。 秋山 好古(1859~1930) 1859年、旧松山藩士、秋山久敬(ひさたか)の三男として愛媛県松山市歩行町に出生。幼名 信三郎。 一時教職にあったが、1877(明治10)年陸軍士官学校、1883(明治16)年陸軍大学を経て騎兵科を志す。 陸軍士官学校卒業後、騎兵戦術の研究を重ね日本騎兵の基礎を築く。 1904年日露戦争においては自分が養成した騎兵第一旅団長として出征、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで騎兵術を駆使してロシア軍と戦う。特にロシアのコサック騎兵との死闘、黒溝台会戦に於いて日本軍を崩壊の危機をから救う。また、騎兵による敵情偵察や挺進行動を行い、日本陸軍の勝利に貢献。 日本の騎馬集団を育て「日本騎兵の父」とも呼ばれる。1920年には陸軍教育総監となり、陸軍の最高幹部の一人となる。 退役後は、北予中学校(現在の松山北高校)校に長就任、教育者としての道を歩んだ。